基本情報
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2024年度上期、第171回芥川賞受賞作品の1作。作者は1980年生まれの松永K三蔵。今期は2作受賞となりました。そして、前記事から読んで頂ければ分かりますが、作品は、そして作者も対照的でした。
受賞作となった『バリ山行』は、シンプルな「おもしろい純文学」です。これは、作者、松永がインタビューで語ったオモロイ純文運動のとおりだと思いました。彼は、そのオモロイ純文運動の先頭になろうとしています。具体に「案内役を買って出たい」と語っています。純文学は、難しく、つまらないという世間のイメージの払拭のため、声高に、「違う! 純文学とは、おもろいんや!」ということを主張しています。そのためか、この『バリ山行』はとても読みやすく、そしておもしろい純文学作品です。いわゆる身辺雑記を、なんだか難しい言葉で書いたような堅物では決してありません。
そして彼、松永K三蔵はついに本作で芥川を受賞しました。が、ここに至るまでには、長い道のりだったと語ります。彼は苦労人。そして、ある意味で王道、これが正規ルートだと思っています。彼が小説家になりたいと意識したのは高校生の時で、それからデビューするまでに、20年以上の歳月がかかりました。ほんと、こうじゃなくてはいけません。早々にデビューする、早熟な天才たちとは違いますね。彼も、またなんたって、私も同じです。境遇は……私に近いです、彼は私の希望です(私も早くデビューして、芥川賞獲りたい!)。と、女々しくなりましたが、前の記事の『サンショウウオの四十九日』の朝比奈秋とはだいぶ違う、と言いたかったのです。
そう、2人の背景が全然違う(ルックスもまるで正反対です。いつかの同時受賞の綿矢りさ・金原ひとみに近いです)ように、作品も対照的でした。『バリ山行』は読みやすいです。しかし、比べれば、少し浅いだとか、前衛的でもなく、普通? なにより難しくないです。松永K三蔵には、『サンショウウオの四十九日』の朝比奈秋が出来ること(書くこと)が、きっと出来ない(書けない)。ただそれは反対に言えば、『サンショウウオの四十九日』の朝比奈秋も、『バリ山行』の松永K三蔵が出来ること(書けること)が、たぶん出来ない(書けない)。けれど、その「出来ないこと」が、悪いことではありません。
私はただこんなにも違うのが、とても面白いと思ったのです。また、インタビューの最後、「私自身は40歳を超えてからデビューしたので、それなりに社会経験を積んでいるつもりです。そして読者には組織で働いている人が多いと思います。同じ感覚を持っている。それが私の強みです。それを活かして、地に足の着いたリアリズム小説を書き続けていきたいですね。」と語りました。
これには納得しました。そうですよね、私のイメージでは作家とは、どこか浮世離れした人間だけだと思った節がありました。でも、そういうわけじゃない、政治家に求められる庶民感覚とか、そういうのに近いのかもしれません。だからいいんです。読了目安時間は4時間。山小説です。
簡単なあらすじ
会社も人生も山あり谷あり、バリの達人と危険な道行き。圧倒的な生の実感を求め、山と人生とを重ねて瞑走する純文山岳小説。
会社の付き合いを極力避けてきた波多は同僚に誘われるまま六甲山登山に参加。やがて社内登山グループは正式に登山部となり、波多も親睦を図る気楽な活動をするようになっていたが、職場で変人扱いされ孤立している職人気質のベテラン妻鹿があえてルートから外れる危険で難易度の高い「バリ山行」をしていると知る……。
「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危険は山じゃないですよ。町ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」松永K三蔵『バリ山行』講談社 帯より
この「バリ」ですが、これは「バリエーションルート」の略です。「バリルート」そんな言い方もするらしいです。突然ですが、皆さんは山登りをしたことはありますか。たぶん、であればきっと登山ルートに沿って登ったのだと思います。というのは、山は本来危険ですので、それでも先人たちが、ここなら、このルートなら(比較的)安全に登れるだろう……という感じに開拓したところが登山ルートです。ですがバリは、それをあえて外れます。そう、危険ですよね。そしてこの妻鹿といのは基本ソロで登ります。これは危ないし、マナー違反だと言えます。だけどね、そんなことはとっくに分かっています。ではなぜ妻鹿は登るのでしょうか。波多には理解できなかった。しかしいつの間にか波多は、そんな妻鹿に、山に、魅了されていきます。
社会と、山を交錯させ、問う、正統派オモロイ純文山岳小説です。
バリ島の山の話じゃなかったのか・・・
火山ツアーでも行くつもりかよ。
面白いと思うところ
到達点のない、誰からも尊敬されない‘愚行’が、却って魅力的に描かれている点に好感を持った。
平野啓一郎 選評より
妻鹿という人物が、ある意味で文学的な存在で、作中ではヒロイックに書かれています。文学において、社会や制度は多くの場合、乗り越えられるべき対象として批判的に書かれています。だから、それを実践している妻鹿は、確かにかっこよくて魅力的です。冒頭はおとなしいですが、段々と引き込まれる。ハマっていく感じ、そしていよいよバリ、もう、引き返せないほどに、きっとあなたも嵌る。そしてね、純文山岳小説なだけあって、山の魅力が伝わります。山でカップ麺とか、したくなりますね。あとコーヒーね、インスタントでも不思議なほど美味かったとありますが、豆から挽いた日にはもう、最高なんでしょう。ああ、山、登りてえ、とか思いますよww
街を離れ、土を踏んで自然の中を歩く。冷たく湿った山気を吸い込むと、仕事の憂さも晴れるように思えた。
いいですよね!
そして、何よりこの作品は、とてもリアルなんですよ! 引用させて下さい。私が、近い業界だからなのかもしれない、ということと、ここでの口実がまたとても共感することができました。
古くなった建物の改修。屋上の防水や外壁塗装、そんな建物の外装の修繕を専門とする新田テック建装に、内装リフォームの会社から転職して2年。飲めないわけではなかったが、当初無理をして顔を出していた社内の付き合いの飲みも、慣れてきた頃には億劫に感じて断るようになっていた。私はその口実に、娘あるいは妻に熱を出させ、住之江区のマンションにひとり暮し、地域のエアロビクスサークルを主宰するほど潑剌と動き回っている母親を要介護者にした。そうやって上司や同僚からの誘いを断り、いつも真っ直ぐ家に帰ってくる私に、寧ろ妻の方が気を揉むようで、「どうなん? 会社は」と度々訊いた。「ぼちぼちかな」とネクタイを抜いて、詳しく話すことはなかったが、後から入った栗が服部課長に可愛がられて営業課の中でうまく馴染む一方、私は自分が早くも浮き始めているのを感じていた。
私はかなり共感もてました。どうでしょう。この口実に近いこと、私使ったことありますww
と、あとは分からないけど、ハマっていく感を見事に書いていることです。こういうところがすごくシンプルで、面白かったです。ナゼ? があるのですけど、分からないのです。でも、確実にそうなっている、という感情を、答えをすぐに置かないで書いているところがとてもよかったです。
何が変わったのか。山は変わらない。すると変わったのは自分自身で、自分を取り巻く状況だった。……振替の平日の休みにひとりで山に登るようになっていた。
目の前に登山道が鬱々と続く。背負ったザックが重い。なぜ自分は貴重な週末の休みに妻と娘を残して、自宅から遠く離れた場所で全く意味のない重労働を行なっているのだろうか。
不思議ですよねww でも、なんとなくこの感じ、分かりますよ。
こういう人にお勧め
繰り返しになりますが、圧倒的な読みやすさ。稀にみる読みやすい純文学、芥川賞作品ですね。近年、読書離れが謳われていますが、本作の『バリ山行』は最適。というか、あまりっぽくない作品です。でも、確実にジャンルは純文学なのですが、もし、純文学アレルギー(そんなのはないのですが)をお持ちだと勘違いしている人でも、たぶん気がつかない。これは、発見にも近い。こういうのもあるんだ! という、まさに案内役が仕事しています。なので、まずは読みやすさ。
それと、これは作者がインタビューでも書いていますが、登山はどこか文学的な行為で、内省的になれます。淡々と1人で山道を歩いていると、おのずと長い時間、考えることになります……と、あって、これは逆説的かもしれませんが、山やランニング、筋トレもそうだと思いますが、そういう趣味の方には、本来読書は向いています(と思っています)。
いよいよ妻鹿と一緒にバリをする。こんなことの何が愉しいのだろう……波多にはさっぱり分からなかった。たまらずに波多は聞く、知りたかった。一体何がそこまでいいのだろうと……
「これがね、最高なんだよ。誰も来ない、こんなところでコーヒー淹れてさ。この自然をひとり占めだよ。こんな贅沢なことある?」
分かるような、でも、まだ分からなかった。
「なんで妻鹿さんはバリやってるんですか?」
「おもしろいからだよ」
前振りが長くなりましたが、ここで波多がひとつ考察をします。
逆なのだ。妻鹿さんは何か特別な風景を求めて登山道を外れ、誰も立ち入らないような難所に足を踏み入れているのかと思っていたが、そうではなく、誰もいない場所に行こうとして登山道を外れているのだ。
どうです! このヒロイズム‼
この、孤高な感じ。でもね、今、けっこう多いんじゃないですか、こういう人。何も推奨するわけじゃありませんが、あなたの先を歩いている人が、ここにいます。少し、覗いてみませんか?
たぶん、あなたもすぐには妻鹿を理解できない。でも、できなくても、どうしてか気になる。きっとあなたもハマる。それが山じゃなくても、妻鹿に。ハマりたいなら、オススメです。是非!
ここから読んだ人向けの話
文学的な実験性という点では、物足りなさはあるが、この完成度は立派であり、多くの読書に愛される作品であろう。
平野啓一郎 選評より
1回のバリで、そこまでハマるものかね
しかも、異常なほどに。たしかにね、いつもの登山とはまた違った、かなり刺激的なことだったのだとは思いますよ(死ぬ思いまでして)、ですがあの1回で、その後は体調も崩し、仕事に、生活に影響・支障をきたしてまでも、こうなるのですね。むしろ反省があるのは分かります。でもね、もちろんそれはあった。だけど、私は違う理由からだと思います。理由、というか、依存・禁断症状なのだと思います。薬物依存に近い。魅せられた、自然に、山に、(ある意味)妻鹿というカリスマに。いや、その気質はもとからあったのかもしれませんね。結局似た者同士だった、というオチかもしれません。
私はもう以前のように登山部での登山には惹かれなかった。それどころか登山部の仲間と登る、そんなことがひどく煩わしいことのように思えて仕方なかった。私はひとりで登りたかった。……私はバリを、妻鹿さんを理解しはじめているのかも知れなかった。
気づかされたのかもしれませんね。ロマンチスト、それを現実逃避と呼ぶのならそうなのかもしれません。少なくても、リアリストではありません。たぶん、波多は取り巻く環境はもうギリギリだったのではないでしょうか。だから、こんなにも簡単にそうなった。と、私は思います。
妻鹿が山に求めていたことは
「な、本物だろ? 波多くん」
本物? 私がその意味を掴みきれずにいると、「この怖さは本物だろ? 本物の危機だよ」と続けて言った。
妻鹿が求めていたのはロマンです。なぜなら彼はロマンチストだからです。このワードに違う言葉をあてると「現実逃避」それですね。と、ここからは少し真面目な話を。たぶん、生きづらいのですよね、世の中が。波多もそうですけど、もっと妻鹿の方が顕著なんです。波多が指摘したことなど、妻鹿も知っています。
「山は遊びですよ。遊びで死んだら意味ないじゃないですか! 本物の危険は山じゃないですよ。町ですよ! 生活ですよ。妻鹿さんはそれから逃げてるだけじゃないですか!」
分かっていますよ。そんなことは。でも、どうしようもないんですよね。
妻鹿はどこに行ったのか
辞めて、仕事は何をしているのでしょうか? 収入は? とか、気になることはありますが、とか、そもそも死地に赴くように、山に行ったのか……など考えることはあります。でも、清々しているのかもしれません。妻鹿には、扶養する家族が2人いますが、たぶん、そこだけです。それさえなければ、もっと自由になれたと思います。会社の事情もありましたが、書かれていないことに、もう、別の何かがあった(収入源とか)のじゃないでしょうか。だから、妻鹿はキレることができた。居なくなることができた。仕事なんて、なんだっていいのです。そういえば妻鹿は、無資格でした。こんなこと、あるかな? 興味がなかった。それはあると思います。でももっとシンプルに言えば、いらなかったのでしょう。いつからそうであったのかもしれないが、妻鹿は、山さえあれば、よかった。そして何よりラストはね、これでいいと思いました。純文学って、暗い終わり、というか書ききらないことがあると思うんですよね、含み、と言えばそうかもしれませんが、ただこの『バリ山行』は、そう、そうだよね! 松永K三蔵なら、オモロイ純文運動しているなら、この終わりだよって、そういう〆で良かったですよね。かくいう私はね、きっと死んでしまったのだろうなどという考察をあてるところでした。別に、あれがハッピーエンドだって話でもありませんが、私は好きな終わりかたでした。
皆さんはどう思いましたか?
最後に基本情報でお話した『サンショウウオの四十九日』の記事も読んでいただけたら幸いです。
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