『DTOPIA』紹介及び考察

小説

基本情報

 2024年度下期、第172回芥川賞受賞作品の1作。作者は1994年生まれの安堂ホセ。2022年に『ジャクソンひとり』でデビュー。そしてそのまま芥川賞候補作にノミネート。次作、翌23年の『迷彩色の男』も芥川賞候補作となり、今般3回目の候補となった『DTOPIA』で芥川賞を掴み取ります。経歴、すごいですよね。が、こんなもんと言ってしまえば、そうかもしれません。デビュー作で芥川賞を受賞することもあれば(偶然、別件で後述します市川沙央の『ハンチバック』が、近年で言えばそうです)、今回で言えば「乗代雄介」は5回目の候補とのことです。正直なところ、私は、そっちが本命だと思っていました(乗代雄介、いいですよね!)。それもありますが、前に記事にもしましたが、竹中優子のデビュー作『ダンス』が大穴だと思っていました。面白かった。リンクを貼っておきます。こちらもよかったら読んでみて欲しいです。

 それで、安堂ホセについて書く。私は彼のデビュー作も、次作も読んでいます。ただ、今回の『DTOPIA』は読んでいなかった。それはどうして? 正直なところ、読む気がしなかったからです。デビュー作は、なかなかに強烈でしたが、好みではなかった。で、問題は次作でした。同じことを繰り返した。私は、二番煎じだと思った。ガックリきた(これじゃあ、最近の村上春樹だ。悪い意味でこういう比喩を使わせてもらう。ただ当然、村上春樹は別格だ。同じような事しているが、面白い。それに、あくまで最近の話だ。個人的には初期の青春三部作が大好き)。ちなみにどちらもブラックミックスのゲイが主人公の話。で、ついでにもう一つ脱線。安堂ホセの顔写真を、こちら↓

文藝春秋2025年3月号、受賞者インタビューより

 みなさんはどう感じたでしょうか?
 ここでね、インタビューから強烈なコメントを抜粋します。

マイノリティの人物を登場させると、作者を起点とした私小説としての側面を読んでもらうことは多いですね。

 そう! そう読みますよね。名前にカタカナが入って、この顔写真。また近年で言えば市川沙央の『ハンチバック』など最たる例ですよね。障害をもった作者が、書いた小説の主人公が障害をもっています。そしてそこで行われる全てが、まるで体験談に聞こえる。
 って、そんなことは書いた本人が一番に分かっていますよ。覚悟です。もちろん、ここから書き始めるのはいいと思っています。それこそ本来の、純文学のデビュー作らしさがあります。だから、私は彼のデビュー作を読んで、好みではなかったが、次作を、期待していた。この作者は、次にどんなものを書くんだって。楽しみにして読んだ。……が、二番煎じ。それは違うのかもしれないが、私にはほとんど同じに感じられました。
 だから、『DTOPIA』は読む気がしなかった。期待していなかった。たしかにデビューから3作品連続で芥川賞候補はすごいことだが、ああいうテーマで書けば、選ばれやすいかも。とか、酷い偏見があった。きっと、今回の『DTOPIA』も、同じようなことを書いているのだろうな。だから、読まない。どうせ選ばれないさ。だって「乗代雄介」がいるし、今回は竹中優子の『ダンス』がよかった……

 蓋を開けたら、受賞作は安堂ホセの『DTOPIA』。そして今回もダブル受賞だった。もう1作は鈴木結生の『ゲーテはすべてを言った』だと知った。驚いた。しかも、鈴木結生は全くのノーマークだった。読んだこともなければ、知りもしなかった(まあ、これはだからなんだって話でしょうが、とにかく驚いたという話です。そして、鈴木結生の『ゲーテはすべてを言った』もよかった。それは、また別の記事で書きます)。
 そして、読んだ。白状する。結論は、よかった。明らかにデビュー作より、次作より、ずっとよかった。本作は、安堂ホセの『DTOPIA』は、芥川賞でいい。記事にするのに、値するかも。生意気にも、そう思ったわけです。




簡単なあらすじ

 どっかの金持ちが美男美女を招集して、南の島で恋愛ゲームを開催する。『DTOPIA』2024シリーズの舞台はタヒチって呼ばれがちだけど、正確にはフランス領ポリネシアのボラ・ボラ島。タヒチ島のちょっと上、タヒチよりもっと小さくて、600万年前、死火山が沈んでできた島でもある。

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 まんま00年代のアメリカ産ラブコメみたいな、レンガ造りのガーデン・アパートメント。エントランスの扉は丸いアーチを持った両開きで、その下にはたった三段くらいの短い階段が構えられていた。壁面には窓がいっぱい並んでいるけど、全部フェイクだ。アパートに住むことになるのは、ヒロインの一人だけだから。

 柵に仕切られた植え込みスペースに立ち並んでいるのは、植物ではなくて人間の男たちだった。センターの扉と階段に隔てられて、右サイドに5人、左サイドにも5人、10人の男が立ち並んでいる馬鹿みたいな光景から、デートピア2024、通称タヒチ編ははじまった。上半身は黒いタキシードジャケット、下半身は黒いスポーツスパッツを身につけた男たちは、それぞれ胸元に国旗のバッジを刺していた。左から通称で、Mr.L.A.、Mr.ロンドン、Mr.パリ、Mr.ミラノ、そしておまえ。Mr.東京こと、井矢汽水。右サイドにMr.マドリード、Mr.シドニー、Mr.トロント、Mr.ドバイ、Mr.リオデジャネイロ。彼ら10人が、やがて登場する1人の女、ミスユニバースをめぐって競いあう。

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 賞金は20万ドル。あたえられたプレイ時間は毎日4時間ずつ。現地時刻14時、島の気温が最高に達する頃にミスユニバースは「アパート」からビーチへやってきて、好きな相手とデートができる。日没の18時には帰らなければいけない。これをやりながら男をランク付けしていって、最終的に優勝者を決める。今までのシリーズに比べるとあからさまなほどシンプルなルールは開始直後、彼女の行動によって崩壊した。

 ミスユニバースは、そのときのことを語る。日本語字幕が、ハスキーな英語を翻訳する。『選択肢が多すぎる』『私は1人しかいない』。彼女は彼女自身にアテレコするように、そのときのことを別室で語る。困惑を表現するために、スカルプネイルした指をめいっぱい反らせて、顔を傷つけないように口元を覆った。

 青空の下、アパートから延びるレッドカーペットに立って、ミスユニバースはドレスを脱いだ。彼女の下半身がアップになる。ラインストーンを連ねたような細いビキニが丸くて白い尻に食い込み、尻の谷間の奥の奥、まだそこに空間があったんだって笑うぐらい狭いところでキラキラ輝きながら局部を覆っていた。

 突然現れた裸体に、10人の男たちは目を丸くする。笑みを噛み殺し、肩をつつきあう。

 『私は時間を無駄にしたくない』『だから1回で試す』ミスユニバースは声をかける。その様子に、動揺や恥じらいは全くない。
 『何を?』Mr.ミラノが質問を飛ばす。
 『ファック』
 そうしてルールが崩壊した。

安堂ホセ『DTOPIA』より

 長い引用失礼します。そして続けて謝罪。実のところ、完全にこの「恋愛リアリティショー」というのが、隠れ蓑。何を言っているのかと言うと、こんな気持ちで読み進めると、大ケガします。本作は、恋愛リアリティショーのパートから始まっていますが、本編はミックスであるモモを主人公とする東京パートが神髄。「Mr.東京」こと「井矢汽水」を「おまえ」と呼ぶ、モモ。どんなケガをするかって?
 これは一定数はね、苦手は人がいるでしょう。なぜなら本作は、ゴリゴリのアングラで、これより以降で引用します選考委員の先生による選評や本文引用からわかるのですが、なかなかパンチあるワードが並びます。
 だけど、こういう作品って、そうそうありません。

HARU
HARU

バチェラーやバチェロレッテって番組流行ったよね。

PENくん
PENくん

bachelorって学士や独身男性って意味だよ使いどころがない単語の一つ。

面白いと思うところ

人称や焦点人物はめまぐるしく入れ替わり、エピソードも強引に連結されてゆくが、そのポリフォニックな構成

島田雅彦

『DTOPIA』は他の候補作をなぎ倒すエネルギーにあふれていた。社会になじむための自分と、本来の自分を両立させるのに、なぜこれほどの苦痛に耐えなければならないのか。
その理不尽さに対抗するため、モモは睾丸を切り捨て、キースは残骸となった睾丸を保存する。気づくと、血のにおいの中で溺れていた。気休めの感傷など寄せつけない、冷ややかな血の滴りを浴びるような体験だった。

小川洋子

まさに今日描かれるべき主題を、誰も思いつかない物語へと過剰に展開してみせる作者の力量には圧倒された。

平野啓一郎

 とにかく東京パート! さらっと小川さんが書いていますが、睾丸を切り捨て!? 厳密に言えば語り手のモモが「おまえに睾丸を摘出されたとき、」と言います。
 そう、恋愛リアリティショーのパートでMr.東京を「おまえ」というのも、語り手のモモが言っているのです。そして何よりスルー出来ないワードが……睾丸を切り捨て!? すごいコトバだ……またなぜ、モモはおまえに睾丸を摘出されることになったのでしょうか。ここもそうだけど、この睾丸をどうしたのでしょうか。ここでは語りませんが、ほんと、すごい。鋭いナイフみたいです。切れ味は、抜群です。
 そして主題がね、平野さんも書いていましたが、たまりません。こういう本が、最近は増えてきましたね。きっと、これも時代でしょう。また下記に引用しますが、この文章はうまいなって思います。

 鈴木百乃助というフルネームからとって、モモ、とおまえはおれのことを呼ぶようになる。そして私も、つまりモモ自身も、そう呼ぶようになる。おれ、っていう一人称から、私、って一人称へのぎこちないギアチェンジを、モモっていう言葉がスライムのようにカバーしていく。一人称でもあるし、三人称にもなる。エゴとしての自分と、世界の一員としての自分を、両立させるための二文字。ピンク色で、弾力があって、どこの国の言葉ともつかない響きを、おまえは私の名前から発掘した。

 いいなって、思います。そして続けて東京パート(モモのパパ)編より、

 だから、君にそんな……おまえはどんなに冷静なつもりでも……絶対に間違えてる。……あのなモモ。モモさんさ、……おれはまずそれを参照する。僕はなるべく、

 ここもね、いいんだよ。すごくいい。モモの父親が、モモのことを「君」と呼び「おまえ」と呼び、絶対に間違えてるといい、「モモ」「モモさん」と呼ぶ。また父親は自分のことを「おれ」と言い、僕」ともいう。ここの下りはね、最高だった。また、

 13歳までに人を殺しておくべき……

 上記のような言葉も出てきます。これ、このセリフ、カルト漫画、私の世代で流行った『多重人格探偵サイコ』を思い出しましたね。最近流行の壁、法治国家におけるまさに13歳の壁ですよねww が、これも得意の脱線、つい小ネタを挟みたくなってしまう、失礼。
 でも、ほぼ全ての犯罪の基礎は、少年の頃にあるとさえ私は考えることがあります。本作の東京パートは、まさに少年時代の話です。これは『模倣犯』でピースが言ったこと、血のせいじゃない、環境のせいだ……って、今この話題を出すことは、色々あって、なかなかにコンプリケーションですねww

こういう人にお勧め

 これも一例ですが、下の引用を読んでみて下さい。

 どうやらトレーダーっていう生き物は、みんな共通の強迫観念から逃れようとしているらしい。「自分たちが手にしている金は誰かから奪ったものではないか?」という罪悪感。そしていつかそのツケが回ってくるまでの猶予として毎日を過ごすような不安。けどトレードのときは一切そうした考えを切り捨てて、世界をマクロの視点から予測しなければいけない。波形、粒子、黄金比といった物理的な法則で世界を捉えること。睾丸入りの水晶は、そうした感性にも手応えを与えてくれるようだった。なぜなら動物としてのヒトが秘める呪力を信じるとき、人間が他の獣と同等であるという前提を無意識にのむことができるから。彼らの手に渡った、ヒト科のオスの睾丸。世界のどこかの、可哀そうな人間の生贄。それが日本に住む小児性愛者たちのものだとは、きっと誰も思わない。おまえは物々交換の国で、ピラミッドの上層部にいる宇宙人たちのために、摘出した睾丸を納品し続けた。

 どうでしたでしょうか。もはや、これだけで面白い。そして宇宙人ね。これは考察で。
 ここで要約、ではないですが、こういう作品、そうそうありません。そしてアングラって、意外とファンが多いことも知っています(逆に、とーっても受けつけないって人も一定数いることも知っています)。また同じことを書きます。

まさに今日描かれるべき主題を、誰も思いつかない物語へと過剰に展開してみせる作者の力量には圧倒された。

平野啓一郎

 結局、これに尽きる。
 最近の小説に、何か物足りなさを感じるならば、ぜひ本作を。強い筆圧で、かつ内容満載、胃もたれ確実な文章が、あなたを圧倒します。是非!!

ここから読んだ人向けの話

睾丸水晶と宇宙人について

 発想は抜群です。エグイ。そして、本当に絶妙にアングラでありそう。また睾丸の話で、モモが、

「べつに殺したい人はいないけど、ヒゲが伸びてくるのが気持ち悪い」
「体だけ時間を止めたい」

 このように語ります。だから、睾丸を摘出って!? とは、普通はならない。モモは、ノンバイナリーだし、でも、パパ編でも散々説教があったが、はっきり言えば、モモのこの選択は、ひとつの答え、抵抗でしょう。ある話なのかもしれない。そして話を「睾丸水晶」に戻しますが、「おまえ」は摘出した睾丸を転売し、世話になった『インディゴ・チルドレン』店主の土沢は、冷凍睾丸は人口水晶のなかに閉じ込め、それをひとつの呪物として扱っています。

 水晶の中の睾丸は、それまでとは全く別の文脈を帯びる。

 シビレル。また、ニュースで報道されているいざこざはあくまで人間の摂理であり、ピラミッドの上部にいたのはいつの時代も人間のふりをした宇宙人だった。

 宇宙人という考え方について。
 安直に言えば、宇宙人=レベチな人、でしょう。これは当然、比喩ですし、他の言い方をすれば人生何週目かの人。……か、本当だろうか。それは、安直で、シンプル過ぎるでしょうか。だけど、指しているのは富裕層、金持ちの変態。彼らには、先見の明があって、どこかそれが未来人みたいだ。結果、上級国民。金や、権力をもった人を、指す言葉が「宇宙人」なのだと私は思います。

恋愛リアリティショーという舞台設定について

 要は、本作は東京パートが本編で、恋愛リアリティショーは隠れ蓑と書いたところであるが、なぜ、これらを描かなくてならなかったのか?
 
 導入として面白いからです。かく言う私だって「簡単なあらすじ」では、あえて恋愛リアリティショーのことを書いた。なぜって? 釣りですよ。しかも絶妙なのが、こっちも面白いというところ。よく研究されている。たとえば、ミスユニバースと召使いのマルセルとのルール違反なんかは面白いし、さらに、そこからの「黒人は1人もいない」から『関心領域』まで話を繋げたのは、見事でした。だけど、さすがにてんこ盛り過ぎかなって思いましたね。書きたいことが溢れている。と同時に、よく練られた作品だと思いました。愛を感じます。

終わり方について

 きっとあなたも感じたはず、ラストが、なんか、弱い。恋愛リアリティショーパート→東京パート+パパ編・「おまえ」編と物語がどんどん面白くなるのに、話は戻って、フランス領ポリネシアのボラ・ボラ島に、そこでデート兵だとか、うーん、弱い。で、さらっと終わる。どう感じましたか? 途中、東京パートが強烈過ぎたせいか、私が勝手に物足りなさを感じているのでしょうか。でも、やはりそうだって思うのは、恋愛リアリティショーパートのことが色々と回収されていなかった。でも、そんなこと別にいいかなって思いました。だけどなあ、というか、なんなら戻ってこなくてよかった。『こころ』と同じでよかった。律儀に戻って来る必要なんて、私はいらないと思いました。
 ……だ・け・ど、「キーフレーム」の話は、とてもよかった。どうしてでしょうか、私には救いのように感じました。あれが、書きたかったのかな。なら、許そう。とか、また生意気なことを言って終わることにします。

 皆さんはどう思いましたか?

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