『アノーラ』あらすじ付き作品紹介及び批評

映画

基本情報

“アンチ・シンデレラストーリー”の衝撃

 監督はショーン・ベイカー、2024年のアメリカ映画です。上映時間は139分。本作は2024年のカンヌ国際映画祭で最高賞パルムドールを受賞。さらに2025年のアカデミー賞では作品賞・監督賞・主演女優賞など主要部門を含む5部門を受賞‼。主演はマイキー・マディソン。この子がめちゃくちゃかわいい‼
 ええと、基本情報? は、ほぼなし。知らない監督が、めちゃくちゃかわいい子を主演にした映画がね、すこぶる評価が高いって話、だけ。作品賞はね、やっぱ気になるよね。そして映画IQの高い友人にもオススメされた。その友人は、多くは語らなかった。下記に記載した(公式引用)粗々の筋を説明しただけ。でも、観て欲しいと言った。HARUさんに観て欲しい、と。これは、何かあるぞ、と思った──

簡単なあらすじ

NYでストリップダンサーをしながら暮らす“アニー”ことアノーラは、職場のクラブでロシア人の御曹司、イヴァンと出会う。彼がロシアに帰るまでの7日間、1万5千ドルで“契約彼女”になったアニー。パーティーにショッピング、贅沢三昧の日々を過ごした二人は休暇の締めくくりにラスベガスの教会で衝動的に結婚! 幸せ絶頂の二人だったが、息子が娼婦と結婚したと噂を聞いたロシアの両親は猛反対。結婚を阻止すべく、屈強な男たちを息子の邸宅へと送り込む。ほどなくして、イヴァンの両親がロシアから到着。空から舞い降りてきた厳しい現実を前に、アニーの物語の第二章が幕を開ける──

公式より

 映画を観てから読んでみると、面白い発見に気がついた。あらすじにはほとんど意味は無い。しかも、なんなら知らない方がいいまである。それで思ったのが、基本情報も同じだ。要は、ネタバレなんだ。「アニー」こと「マイキー・マディソン」の可愛さや美しさは、人から聞くものでもない。そんなのは違う。あと、仕掛けがバレる。それじゃあ台無しなんだよな、なんて心配もしちゃう。
 いいから見ろ! そして感じろ(考えろ)系映画なんです。教材みたいな映画。以前、ここでも書いたな。あれも良かった。『カランコエの花』。アプローチの仕方は違うけど、観た方がいい。まあ本作は、映画通に受けるよね。そう思う。

HARU
HARU

気になる映画ほど、前評判なしで観たいよね。

PENくん
PENくん

絶賛! 絶賛! 言われるとハードルばっかり高くなるやつ。

面白いと思うところ

 はっきり言えば、別に面白くはない。ただ、主演のマイキー・マディソンがめちゃくちゃかわええ。系統はアンハサウェイ。若干クセありのようだが、それがたまらなくいい。
 見てくれ、この顔。どや!

 なんて、ズレたことを書いたが、とにかく観てよかったと思う。まずは彼女に会えた。
 それが一番の収穫。で、次にコレ。私はこれ言いたい!

『アノーラ』は素晴らしい映画なのかもしれない──
    ──だけど、もう一度観たいとは思わないんだ

 率直な感想。で、なんでこれを面白いとこに書くんだって? だってね、この映画は、考えることがだいぶある。その点は記事向き。私がこれから読んだ人向けに長々と書く批評を読んでほしい、「ああ、そういうことなのね!」的なこと、別にミステリーじゃないし、密室トリックなんかを語るつもりはないが、きっと面白く読むことができる(ずいぶんハードルをあげる汗)。だから、いわゆる答え合わせ、もしくは共感を約束しよう。
 映画はね、観て半分。その後一緒に観た恋人や仲の良い友人なんかと語り合って、やっと完成。というのが持論。ちゃんと、そういう映画がある。『アノーラ』はまさにソレなんだ。君はこの考え、どう思う? それをさ、僕としよう。ということで、観ていないのなら、ちゃんと観てから読んでほしい。僕はどこにも行かない。ここで待っているからさ──

音楽で言えば転調

 本作の大きな特徴は、前半と後半のトーンの落差です。転調。違う映画、ジャンルがガラリと変わります。これね、フット後藤の「高低差ありすぎて耳キーンなるわ!」ですね。……世代かな、伝わるといいんだけどww

 前半はまるで現代版のシンデレラストーリー。貧しいストリップダンサーのアニーが、ロシアの御曹司イヴァンと出会い、豪遊し、ラスベガスで結婚する。ここまでは、どこか軽快でコメディのようなテンポがあります。

 ところが後半になると、映画は一気に変質します。イヴァンの両親が結婚を認めないことが分かると、物語は恋愛劇から半ばブラックコメディの追跡劇へと変わっていきます。
 豪邸に押しかけてくる取り巻き、逃げるイヴァン、振り回されるアニー。

 この映画の奇妙な魅力は、観客が「これは何の映画なんだろう」と思い始めるところにあります。

 ロマンティックでもなければ、単純な社会派映画でもない。あれれ、ジャンルの居場所が常にずれているのです。さあ、さあ。観て下さい、言葉の限界が近づいて来る。その足音が聞こえる。次のカテゴリまではOKだけどその先は観た人だけですよ。

こういう人にお勧め

 映画好きな人!(←書いていてヤバイww でも、そうなんだよな。もしくは映画IQが高い人は是非。)それと、純文学好きな人(←この説明はアトで)。ほかにも、例えば主演のマイキー・マディソンをまだ知らないあなた。観た方がいい。ほんと、かわいいから。きっと君も好きになる。そんでもって、考える映画です。感想とか語り合いたい人! 
 あのシーンね、ああ、クズのイヴァンね、とか、あのおかんどう思う? そしてラストシーンの解釈を、とか、ただ観るだけでおさまらない、お喋りが好きな人には、ぜひ。
 いいよね。そうやって映画を観るのは、楽しい。繰り返しになるけど、

『アノーラ』は素晴らしい映画なのかもしれない──
    ──だけど、もう一度観たいとは思わないんだ

 これ、引き込まれませんか。「素晴らしい映画」だと言う。し、その後の「なのかもしれない」も、いい。勝手に自画自賛ww
 さあ、ここから先は観た人向けです。あなたは、『アノーラ』をどう観たんだろう?

ここから観た人向けの話

まずは要点整理

 本作『アノーラ』はかなり「記事向き」の映画だと思いまして、あなたと話し合う前に、まずは要点整理をします。私は下記のことをピックアップしました。

・前半/後半のギャップ
・アメリカンドリームの崩壊
・イヴァンのクズさ
・父と母の対比
・ボディーガード
・ラストの車のシーン

 このあたりを軸で、批評を書いています。

この映画は“アメリカンドリームの否定”なのか

 『アノーラ』は、一見すると現代のシンデレラストーリーの形をしています。

貧しい女性

金持ちの男

突然の結婚

 しかし映画は、この夢を徹底的に破壊します。イヴァンはただのクズです。幼稚で責任感がなく、問題が起きると逃げる。
 そして彼の両親もまた、息子を守るために金と力を使って結婚を潰そうとします。
 ここで重要なのは、アニーは決して間違ったことをしていないという点です。彼女は合法的に結婚しただけです。
 しかし社会の力関係はそれを認めません。

 つまりこの映画は「貧しい人間がルール通りに行動しても、階級は越えられない」という残酷な現実を描いています。

 アメリカンドリームは存在するのかもしれない。しかしそれは、少なくとも彼女のような人間のためには用意されていない。

父と母の違い

 イヴァンの母親は典型的な「支配する富裕層」として描かれています。怒鳴り散らし、結婚を完全に否定する。
 しかし父親は、意外にも冷静です。彼はアニーを侮辱するというより、状況を処理しようとしているように見えます。
 つまり父親は「人間として正しい」わけではないが、少なくとも理性的です。

 ここが面白いところです。この映画では、貧困層も富裕層も、誰も完全な悪ではない。
 ただし、システムとしての階級は確実に存在している。

あのボディーガードの存在

 この映画の中で、最も奇妙で印象的な人物がボディーガードです。彼はアニーを捕まえる側の人間です。
 しかし同時に、彼は唯一まともな倫理観を持っている人物にも見えます。彼は命令に従うしかない立場ですが、アニーに対して必要以上の残酷さを見せません。

言い換えると、この映画の中で唯一「普通の人間」に近い存在なのです。だからこそラストのシーンが効いてきます。

ラストシーンについて

 車の中で、アニーは突然ボディーガードにセックスを求めます。
 しかし途中で泣き崩れます。あの場面は非常に複雑です。

 彼女はボディーガードを好きになったわけではありません。むしろ逆です。彼女はそれまで、ずっと「商品」として扱われてきました。体も、結婚も、すべてが取引です。

 だから最後に彼女は、自分から取引を始めてしまう。しかしその瞬間、自分が何をしているのか気づいてしまう。そこで初めて泣くのです。それは恋ではなく、救いでもなく、ただの疲労と絶望の涙です。

ここまでのまとめ

 『アノーラ』はシンデレラストーリーの形を借りながら、その夢を徹底的に解体する映画なのだと思います。貧困。階級。男の幼稚さ。そして社会の不公平。それらを笑いと混乱の中で描きながら、最後に残るのは一つの問いです。「彼女は最初から勝てるゲームをしていたのか?」その答えは、おそらく最初から決まっていたのかもしれません。

 まだまだ書きたりない。批評は続く。

なぜ『アノーラ』は途中でコメディから〇〇に変わるのか

 前半と後半のギャップが変な感じ、この映画は意図的に 「ジャンルが壊れる構造」 になっているんです。〇〇には、「悪夢」とあててもいいが、私は「不快な映画」だと思いました。

 『アノーラ』を観ていて、多くの人が感じるのは前半と後半の妙な違和感でしょう。前半はほとんどコメディです。ストリップクラブで働くアニーが、ロシアの大富豪の息子イヴァンに気に入られ、豪遊し、ラスベガスで衝動的に結婚する。ここまでは、軽薄ながらもどこか楽しい。観客も「これは現代版シンデレラストーリーなのかもしれない」と思い始めます。

 ところが映画は、その期待をかなり乱暴なやり方で壊します。イヴァンは逃げ出し、取り巻きが現れ、アニーは状況をコントロールできなくなります。物語は恋愛映画から、ほとんど人間が右往左往するだけの騒動劇に変わります。ここで多くの観客が感じるのは、

「なんだか嫌な映画だな」という感覚です。

 しかし、この不快感こそがこの映画の核心かもしれません。普通のシンデレラストーリーでは、物語は階級を越えます。貧しい娘が王子と結ばれ、世界が変わる。

 しかし『アノーラ』では、世界はまったく変わりません。アニーは努力もしていないわけではないし、騙したわけでもありません。彼女はただ、目の前に現れた金持ちの男と結婚しただけです。

 それでも彼女の結婚は、あっさり無効化されてしまいます。
 なぜなら、金持ちの家族のほうが社会的な力を持っているからです。

この瞬間、観客は気づきます。
この映画は恋愛映画ではなく、

階級の映画だったのだと。

 しかも厄介なのは、悪役がはっきりしていないことです。イヴァンは確かにクズですが、ただの甘やかされた子どもでもあります。母親は傲慢ですが、息子の結婚を止めようとする気持ちは理解できなくもない。父親はむしろ冷静で、暴力的な人物には見えません。

 つまりこの映画では、誰も絶対的な悪ではない。それでもアニーは負けます。
 ここに、この映画のいちばん不快な部分があります。

不正があったわけではない。陰謀があったわけでもない。
ただ単に、社会の仕組みがそうなっている
それだけなのです。

 そしてラストの車のシーンで、その残酷さはさらに露骨になります。アニーはボディーガードに身体を差し出そうとします。それは恋でも欲望でもなく、ほとんど反射的な行動です。彼女はこれまでずっと、自分の身体を「取引」の道具として使ってきました。だから最後も同じ方法で、何かを繋ぎ止めようとする。

 しかし途中で彼女は泣き出します。その瞬間、彼女はようやく理解してしまうのです。
 結婚も、愛も、夢も、結局はすべて同じ取引の延長だったのではないか、と。

 『アノーラ』は救いのない映画ではありません。ただし、この映画が示している救いは、かなり冷たいものです。それは、夢が叶うことではなく、夢が最初から用意されていない世界を知ることなのかもしれません。

『アノーラ』は“〇〇の映画”というより“〇〇の映画”なのかもしれない

 ひとつめの○○は「階級」でしたよね。そして、もっともっと考えてみると、次の〇〇には「成金」と言葉をあてると、それは面白い。

 ストリップダンサーのアニーと、ロシア富豪の息子イヴァンという構図は、明らかに階級差の物語です。
 しかし作中の人物をよく見ると、もう一つ別の読み方もできそうです。
 それは、この映画が「成金の家族」を描いた物語なのではないか、という視点です。

 イヴァンは完全な放蕩息子です。金はあるが、教養も責任感もない。ただ遊びたいだけの若者として描かれます。
 そして母親は非常に攻撃的です。怒鳴り散らし、力づくでも結婚を無効にしようとする。その振る舞いには、上流階級の落ち着きというより、むしろ過剰な防衛反応のようなものが見えます。
 つまり彼らは、生まれながらの貴族というより、「金はあるが、それをどう扱えばいいのか分からない階層」にも見えるのです。そう考えると、父親の態度が少し違って見えてきます。彼は怒鳴りもせず、状況を整理しようとする。どこか事務的で、冷静です。もしかすると彼だけが、この騒動の滑稽さを理解している人物なのかもしれません。

 そしてその外側にいるのが、あのボディーガードです。彼は金持ちの側の人間ですが、彼らの世界に属しているわけでもありません。アニーと同じく、ただ仕事としてそこにいるだけの人間です。

 だからこそラストの車の場面では、階級も金も関係のない、奇妙な沈黙が生まれます。
 アニーと彼は、まったく違う立場にいながら、同じことを理解してしまったようにも見えます。それは、この騒動の中心にあった「夢」が、最初からかなり空虚なものだったという事実です。
 『アノーラ』は、貧困の映画であると同時に、富そのものの滑稽さを描いた映画でもあるのかもしれません。

まとめ(その2)

 『アノーラ』は、最初から観客を騙すつもりで作られている映画なのかもしれません。
 物語は、貧しいストリップダンサーと金持ちの御曹司の出会いから始まります。豪遊、ラスベガスでの結婚。ここまで来ると、多くの観客はどこかで期待します。「これは現代版シンデレラストーリーなのではないか」と。しかし映画は、その期待をあえて利用します。
 夢が叶うかもしれない、という瞬間を見せておいて、その夢がいかに脆く、そして簡単に壊されるものかを突きつける。
 つまりこの映画は、アニーだけでなく、観客自身の「物語への期待」をも崩していく作品なのです。だからこそラストに残るのは、爽快感ではありません。むしろ少し居心地の悪い、奇妙な余韻です。けれど、その不快さこそが、この映画の誠実さなのかもしれません。

イヴァンのセックスについて

 いやあ、下手くそでしたよね。あれはいけん。童貞のやつだね。というか、かなり意図的な演出、監督の性格が悪いですよねww
 これは単なる下ネタだけではなく、映画のテーマにちゃんとつながっています。まず前提として、作品の中でのイヴァンは、あらゆる意味で「子ども」です。金も自由もあるのに、責任だけは一切取らない。問題が起きると逃げる。結婚ですら、ほとんどゲーム感覚です。
 その人物像がいちばん露骨に出るのが、セックスの描写なんですよね。

 アニーはストリップダンサーで、言ってしまえば「男の欲望」を仕事として扱っている人です。つまり彼女は、男性の身体的な振る舞いや、セックスの「自己中心性」をよく知っているはずです。そんな彼女と比べると、イヴァンの振る舞いはおそらくかなり幼い。
 独りよがりで下手くそである可能性は高い。ここで面白いのは、この描写が単に「ダメな男」を笑うためだけのものではないところです。イヴァンのセックスは、おそらく彼の生き方そのものの縮図です。

 相手のことを考えない
 自分の欲望だけで動く
 終わったら興味を失う

 つまり、彼は恋愛でも結婚でも、同じことをしているんです。そしてもう一つ重要なのは、アニーの側です。彼女はたぶん、そのことに気づいている。気づいていながらも、しばらくは付き合ってしまう。なぜなら、そこには金と夢があるからです。

 だからこの映画の前半は、少し奇妙な空気があります。ロマンチックというより、どこか取引めいた幸福に見える。その違和感が、後半で一気に崩れます。
 つまりイヴァンのセックスの描写は、かなり乱暴に言うと、「この男は、そもそも他人と関係を結べない人間だ」という伏線でもあるわけです。だから彼は逃げる。結婚からも、責任からも、アニーからも。

 そして最後に残るのは、あのボディーガードとの車のシーンです。ここがまた面白くて、彼はイヴァンと真逆の存在なんですよね。

 派手ではない
 金持ちでもない
 しかし相手を見て行動する

 つまり、最低限の人間的な距離感を持っている男です。だからアニーは、最後に彼の前で崩れる。あの涙は恋というより、「まともな人間に出会った瞬間、自分がどれだけ変な世界にいたか気づいてしまった」という涙にも見えるんだ。この映画って、セックスの描写まで含めて「人格の描写」になっているわけ。

 ここでイヴァンの話に補足する。あなたは気がついたかな? 
 イヴァンって、アニーのこと一度も本気で見ていなくない?

 これは多分、この映画の恋愛構造に関係しているんだと思う。要は、普通の恋愛映画では、どこかに「相手を見つめる瞬間」があります。相手を人間として認識する瞬間ですね。
 でも『アノーラ』では、イヴァンはほとんどその瞬間を持たないんです。彼にとってアニーは、可愛くて、エロくて、楽しい女。一緒に遊べる女、セックスできる女……このレベルで止まっている可能性が高い。だから結婚も軽い。だから逃げるのも軽い。

 逆に言うと、アニーの側は、途中で少しだけ本気になりかけているように見える瞬間があります。結婚証明書を守ろうとするところとかですね。ここで二人の温度差が決定的になります。

 つまりこの映画の関係は、恋愛のすれ違いですらない。そもそも同じ関係を見ていない。この構図があるから、ラストの車のシーンが効くんだ。あのボディーガードは、イヴァンほど金も自由もない。でも彼は、アニーを「人」として扱っている。その瞬間、アニー初めて、「自分がどう扱われていたか」「自分が何を期待していたか」等、その両方に気づいてしまう。それが、あの途中で止まるセックスと涙に繋がるように見えます。だからこの映画、かなり意地の悪い言い方をすると、恋愛映画の形をした「恋愛不成立映画」なんですよね。そんなジャンルないよって、ツッコミはなし。

さいごのまとめ。私の感想と、純文学との類似性について

「この映画好き?」そう聞かれたら、僕はこう言う。本音だ。

「主演のマイキー・マディソンが可愛すぎた。そして純文学みたいだった。で、僕の意見は好きじゃない。胸糞が悪いからね」

 まず主演の「マイキー・マディソン」が可愛すぎる、という感覚。これは多くの人が思うことと同じでしょう。彼女の魅力って、いわゆるハリウッド的な完璧な美人というより、表情の揺れ方がすごく生々しいところなんだと思う。だからきっと観る人は自然とアニー側に感情移入してしまうんだ。
 それがあるからこそ、『アノーラ』はかなり意地の悪い映画になっていると思う。もし主人公があまり魅力的でなかったら、観客はもっと距離を取れる。

 でもこの映画は、観客に「応援させてから」突き落とす構造になっている。

 これはさ、純文学に近いんだ。純文学ってさ、「人物は魅力的」「文章は美しい」でも「読後感は最悪」みたいなことがありません?

 たとえば太宰治。読んでいて面白いし、人間も魅力的だけど、読後はわりと気分が沈む。『アノーラ』もそれに近い。

 しかもこの映画、観客の気分が悪くなる理由は単純で、悪人が勝ったわけでもないのに、主人公が負けるからなんですよ。イヴァンはクズ。母親も嫌な人。でも彼らは特に罰を受けない。ただ階級の力が働いただけで、物事が決まる。これが胸糞の正体なんだと思う。

 しかも最後に、アニーが完全に壊れるわけでもない。救われるわけでもない。ただ泣く。この中途半端な終わり方も、なんか純文学っぽい。

 そして帰結する。「映画としては素晴らしい」「主演は魅力的」「でも世界が嫌すぎる」
 つまり、「良い映画だけど、好きじゃない」というタイプの作品なんだ。

 ラストの涙が、取引としての人生への気づき
 純文学的な読後感(良い映画だけど胸糞)。これが、私の『アノーラ』

 それとね、きっとお気づきでしょう? 何回同じ話するねん! って、でもね、これ、そうなった。そして、だけど気づいていながらもそのままにした。意図的なんだ。映画を観て、掘って、掘って、考えた。もしくは向き合った。そしたら、こういう構成になったし、結論を繰り返したんだ。くどかったかもしれない。ごめんよ。だけどね、久しぶりに、こうやって映画を観たし、色々と考えてみた。
 さいごまで読んでくれてありがとう。
 あなたは『アノーラ』をどう観ましたか? ぜひ、聴かせて頂きたいな

新生活応援!!家電に布団に自転車など!
買いそびれはありませんか??

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