基本情報
まず、どう説明しようかと考えていたところ、こねくり回した賛辞は止めることにした。シンプルでいいと気づく。小説『月まで三キロ』は、素敵で、いい小説だ。作者は伊与原新。本作は短編集で、2018年に単行本として刊行、2021年に新潮文庫化。文庫版には特別掌編「新参者の富士」も収録。全6編と特別掌編からなる一冊です。読了目安時間は5時間。
作者の伊与原新(いよはらしん)は1972年、大阪府生まれ。神戸大学理学部を卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程を修了とのこと。つまり、作家になる前から、科学を専門に学んできた人です(この紹介は、不要のように感じるかもしれませんが、この背景がわかると納得するところもある)。
彼は2010年に『お台場アイランドベイビー』で横溝正史ミステリ大賞を受賞。2019年には『月まで三キロ』で新田次郎文学賞、静岡書店大賞、未来屋小説大賞を受賞しています。
そして2025年、『藍を継ぐ海』で第172回直木三十五賞を受賞。
さらに『宙わたる教室』は2024年にNHKでドラマ化され、青少年読書感想文全国コンクールの高等学校の部の課題図書にも選ばれています。
僕が『月まで三キロ』を読みながらずっと思っていたのは「この人、ものすごく勉強しているな」という感想でした。月、雪、アンモナイト、海底の堆積物、素粒子、火山……と、作品ごとに登場する科学的な知識が、とにかく専門的なのです。でも、それなのに読んでいて「勉強させられている」という感じがほとんどありません。そして、巻末の参考資料まで目を通して、「ああ、やっぱり」と納得しました。この人は勉強している、信じていいのかも、なんて思ったんだよね。
あとちなみに『月まで三キロ』は「新潮文庫の100冊」にも選ばれてきた一冊(書籍名⼀覧 | 新潮⽂庫の100冊 2026)。2025年版にもラインナップされています。

新潮文庫の100冊って、なんか“夏の宿題感”あるよな。

毎年宿題終わらんタイプだったでしょww
簡単なあらすじ
「この先にね、月に一番近い場所があるんですよ。」死に場所を探す男とタクシー運転手のドラマを描く表題作。食事会の別れ際、「クリスマスまで持っていて」と渡された黒い傘。不意の出来事に、閉じた心が揺れる「星六花」。真面目な主婦が、一眼レフを手に家出した理由とは(「山を刻む」)等、ままらない人生を、月や雪が温かく照らしだす感涙の傑作六編。新田次郎文学賞他受賞。
伊与原新『月まで三キロ』新潮社文庫 裏表紙より
面白いと思うところ
専門知識が「説明」ではなく「物語」になっている
科学に詳しくない人間からすると、素粒子物理学だとか地球惑星科学だとか、普通なら「難しそう」と身構えてしまうんだけど、この小説では、その知識が物語の中に自然に入ってくる。
しかも、科学そのものを説明するために登場するのではなくて、登場人物が何かを知る。その知識によって、世界の見え方がほんの少し変わる。すると、人間の気持ちも少し変わる。その変化が物語になる。だから、理系が得意な人だけの小説ではなく、むしろ「理科は苦手だった」という人にもおすすめできる。科学の話を読んでいるはずなのに、いつの間にか人間の話を読んでいる。そこがとても上手く、心地よく、面白い。
「盛り上がり」がないのに、読める
僕がこの本で一番「すごい」と思ったのは、この点。ものすごく大きな事件が起こるわけではありません。感情を激しく揺さぶるような展開が、連続するわけでもありません。それなのに、読める。ページをめくってしまう。
これって、小説としてかなり強いことだと思うんです。派手な展開で読者を引っ張るのではなく、人物の会話や、ちょっとした知識、風景の描写、そして「この人、この先どうするんだろう」という小さな興味で読ませていく。
だから、読んでいる最中は「すごいことが起きている」という感覚がない。でも、読み終わると、ちゃんと何かが残っている。僕はこれを「静かな馬力」と呼ぶ。
「大人の短編」に触れよう
この小説には、人生を劇的に変えてしまうような奇跡は、あまりありません。むしろ、どうにもならないことを抱えた人たちが出てきます。それでも、誰かと話したり、何かを知ったり、知らなかった世界に触れたりすることで、ほんの少しだけ前を向く。人生そのものが解決するわけではない。
でも、明日を迎えることはできる。この距離感が、大人にはたまらないのではないでしょうか。
だから僕は、この本を「泣ける短編集」と紹介するのは、少し違う気がする。もちろん、胸を打たれる場面はあります。でも、それ以上に残るのは「じんわりよかった」というのが、僕の感想。
こういう人にお勧め
列挙すれば下記のとおりだけど、僕が一番言いたいことは、「大人の短編集」を読みたい人にお勧めする。
・派手な展開より、静かに心へ入ってくる小説が好きな人
・短編小説が好きな人
・大人になってから、人生について考えることが増えた人
・科学は苦手だけれど、知らない世界を知るのは好きな人
・「泣ける」だけではない、温度のある小説を読みたい人
・読後に少しだけ世界の見え方が変わるような本を探している人
読んだ人向け
この小説を「批評」するのは、少し野暮なのかもしれない。と、僕は思うんだよね。
これ、言い訳でもないし、逃げでもないよ。嘘じゃないんだ。それは、読んだ人ならきっと共感できると思っている。『月まで三キロ』を読み終えて、僕は「この作品はこういう意味だ」とか、あまり説明したくないんだ。
なぜなら、どの短編も、じんわりとよかったから、それで十分なのではないか。
そう思ったからだ。
もちろん、科学と人間の関係、人生の再生、孤独、他者とのつながり……語ろうと思えば、いくらでも語れるのだろう。でも、この小説のいいところは、そういうものを大声で語らないことなのだと思う。
科学も、人生も、誰かを救うことも、もっと静かでいい。人は、壮大な言葉によって救われるとは限らない。月の話を聞いたり、雪の結晶を知ったり、化石を眺めたり、誰かと食事をしたり。そんな小さなことが、ほんの少しだけ世界を変えることがある。『月まで三キロ』は、そういう「ほんの少し」を描いた短編集なのだと思う。
──ねえ、いい小説だったよね。
伊与原新という作家を、僕は今回初めて知りました。そして、直木賞を受賞した『藍を継ぐ海』へと続く作品群を、ちょっと追いかけてみたくなった。
派手ではない。でも、確実に読ませる。静かなのに、馬力がある。『月まで三キロ』は、そんな不思議な一冊だった。
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